無比流 兼相流 勝武館


明治41年(1908年)に
無比流十二世師範武石兼相
日暮里で開設した道場が勝武館です。
武石兼相師範31歳での道場設立でした。

道場はのちに蒲田駅の南側に移転。
神田にも勝武館があった。
松本貢兼久先生、松本保男武久先生(尋常小学校一年から)は親子で入門します。

武石師範は昭和18年に急逝
昭和20年に戦場より復員した高弟の松本貢師範により
平塚市松風町に「相州松武館」を設立。
以来戦後70年に亘って多数の門下生を教導し数名の皆伝師範も出ました。
昭和20年から27年の講和までの占領下ではGHQ(連合国軍総司令部)
により武道禁止令が出されていた為、普通の道場経営は困難でしたが
松本師範は乞われて進駐軍の武術指導も行なっており特例があったようです。


現在の勝武館は平成24年に松武館長 松本保男師範より
皆伝を受けた木村賢により
平塚市に新たに設立された稽古場です。

当館では武石翁の伝承した
無比流、兼相流、浅山一傳流(森戸伝)を伝承し
併せて各種武術の研究にも努めております。


正しい伝承には流儀資料は不可欠です。
勝武館では積極的に収集に努めていますが
情熱はあっても個人の努力には限界があります。
関係各位のご協力を切に宜しくお願い申し上げます。

無比流杖術、居合術

無比流とは 佐々木哲斎徳久により大坂夏の陣の後確立された流儀とされる。
当初は杖術のみに非ず居合術・柔術組合、江戸前期は剣術・長刀(なぎなた)
などを含む総合武芸であった。
無比流の他の系統では関ケ原の合戦の後と伝えるが武石系では大坂夏の陣
と伝書に明記されている。

この戦場にて使用せる槍が茎尻より切り折られた爲
残った五尺五寸の柄で奮戦したのが当流杖術の嚆矢とされる。
※ただし平成30年に新発見の資料その他の状況に鑑みれば大坂夏の陣に
出陣したのは徳傳法印歳久の可能性が高い


伝書により微妙な異なりがあるが「真中道流居合腰之廻」
伝系図では
徳傳法印 当流祖師 紀州高野山住後巡国 徳久
佐々木哲斎 無住所
馬場甚兵衛 長州住人 光兼

平成30年8月に新規に発見された伝書
正徳六年の「神道無比流」伝書では
日本開山無住所行人徳傳和尚 歳久
日本無双無住所佐々木哲斎  徳久
となり齟齬が出ている。
最古の萬治元年「神道無比流」伝書では
徳傳術と内容に記載があり
佐々木哲眼行久
が発行している。
流儀の名称も当初は「神道無比流」だったことが判る。
類書にある「無比無敵流」の略称としての「無比流」ではない。

従来の説を破り杖術の開祖を
徳傳和尚(法印)歳久
神道無比流の流祖を
佐々木哲斎(哲眼・啓斎)徳久(行久)
と改める必要がある。
佐々木哲眼発行の伝書に徳傳術と記載があるが
徳傳の武術を佐々木哲斎が広めたという捉え方が目下の処、宜しいようである。

何分古い時代の流儀なので不明瞭な部分も多く今後の研究が俟たれる。



旧幕時代には水戸藩領に広く伝播しており現在でも田谷の棒術、無飛流、
無比無敵流、武秘流長巻術として各地に伝わっている。

流祖発行の「神道無比流傳書」は萬治元年(西暦1658年)発行の物で
無比流現存最古の伝書である。(勝武館蔵)

この伝書の中に「太刀鞘離四方詰之目録」として跪坐での四方詰居合の
記載があり林崎流との関連が窺われる。

流祖発行の伝書 太刀鞘離四方詰之目録
また無比流居合術目録の内容から水戸藩発祥の「新田宮流」(和田平助創始)
と関連が深いことが判っている。
明和七年水戸で発行の伝書「田宮流総論」(新田宮流八世の物)の前書及び
柔剛弱強之弁及び口伝の多くの部分がほぼ一致した。

当流には刀礼、血振の所作はなく下げ緒は
鞘に巻き付けたままか外して稽古する。

一人では訓練せず受太刀を付けて二人で行うのが特徴である。
他にも他流に見られない江戸時代の所作が多く残っている。


武術修行は徒に闘争の術のみを学ぶものに非ず。
人生を豊かなものにする手段でもある


無比流杖術

表    四手
中之位  五箇条
極意   十箇条
伝双杖 四手

無比流居合術

全三十手 その他別傳有


 無比流傳系図 史料研究に依って新たに判明した事実に基づき修正した

 始祖  徳傳法印歳久
 流祖  佐々木哲齋徳久
 二世  野村甚左衛門尉勝忠
 三世  武田藤七郎重明
 四世  本多治左衛門尉
 五世  山田宇左衛門尉
 六世  片岡宗吉景重
 七世  軍司次左衛門信三
 八世  前島良助可定
 九世  池田文左衛門誠慎
 十世  小松崎兵庫業求
 十一世 武石新三郎信光
 十二世 武石兼相居士  武石秀之介(実弟 茨城の勝武館所属) 
 十三世 松本貢兼久
 十四世 松本保男武久
 十五世 木村賢

所蔵歴史資料
神道無比流伝書   萬治元年
神道無比流伝書   正徳六年
無比流兵杖免印状  安政五年
無比流杖・居合伝書 昭和十八年 写
真中道流居合腰之廻 発行年・発行者不明 写
第十七回武徳祭大演武会演武番組
大日本武徳会茨城支部 昭和5年11月)
※武石秀之介師範が武徳祭大演武会に演武者として記載有り。

兼相流柔術

兼相流とは水戸藩傳の為我流(いがりゅう)柔術、大倉傳の浅山一傳流体術
に工夫を加えて
「武石兼相(本名は兼太郎)」によって

明治後期ごろ創設された護身柔術である。
江戸時代に発生した柔術は比較的多く現存するが
明治以降創設された新式柔術の現存数は非常に少ない

 

旧幕時代の様式も残しつつ明治以降の新しい技術を加味して
伝えるきわめて貴重な流儀である。
戦前、南千住回向院にある桜田烈士墓前の石畳で武石兼相師範が
松本貢兼久師範を相手にして兼相流柔術を奉納演武した際に
天下一の豪傑として有名だった 玄洋社頭山満より
「近世またと得難き武人ぢゃ」と絶賛され頭山翁が
付けていた時計を戴いたという逸話が残っている。
※「武石兼相先生の思い出」松本貢 昭和63年発行 より

    
頭山満 翁(安政2年ー昭和19年)             勝武館所蔵

 なお大倉傳の淺山一傳流体術
 地之巻上段之位、中段之位、下段之位、奥伝之位各十二本
 合計四十八手及び居捕八手
と大筋で一致する内容である。 

松本傳では「天之巻」「地之巻」「人之巻」に大別され、
夫々「上段之位」「中段之位」「下段之位」各十二本づつ
「天之巻」には「押込」  十二本
「地之巻」には「居捕」  十二本
「人之巻」には「乱之巻」二十二本(松本伝)
ほか別伝技法多数により構成されている。手関節、指関節に対する逆技を多用し
受身は石畳の上で投げられても衝撃の残らない特殊な手法を採用している。
勝武館では大倉傳の浅山一傳流の教本、清水謙一郎(昭和5年に皆伝)発行の
兼相流柔術の極意書を所蔵しており全系統の比較研究ができる唯一の道場である。
なお人之巻の本来の内容は活殺、薬方、白刃捕であり
陰陽道由来の呪符、まじないなども伝承がある。

隠し武器
松本伝の兼相流では隠し武器として「短棒術」二十四手を伝えている。
八寸程度の短小の棒であり護身器としてこれ以上有用の物はないと言える。
その他、松本師範が戦地で習得した捕縄術(かなり独特な二人で掛ける術)も伝承する。

兼相流系図
流祖 武石兼相居士 
二世 松本貢兼久  武石門下
三世 松本保男武久 武石門下
四世 木村賢


所蔵資料
兼相流柔術伝書  武石師範発行 写
兼相流柔術解説書 清水謙一郎
浅山一傳流伝書  大倉師範発行 写
淺山一傳流教本  三部

淺山一傳流兵法(森戸伝)

浅山一伝流の技術(六尺棒、鎌、居合、剣、小太刀)は旧幕時代の
教伝内容に比べて欠落部分もあるが残存している部分のみ伝承している。
失傳部分は「淺山一傳流傳授型筆録」「江戸時代の伝書資料」
を参考に研究しておりある程度の部分までは解明している。

江戸で隆盛を極めた森戸家の淺山一傳流であり流祖以来数々分派した中の一系統である。
蛇足ではあるが森戸傳は大倉傳の淺山一傳流とは無関係である。

淺山一傳斎 壁書(武術叢書より)
武芸は其身の慎
心掛けは手柄の基
心遣いは分別のいろは
堪忍は忠孝の下地
短気は未練の相
がさつは臆病の花

   

木刀型  真之落           同 半月

淺山一傳流系図
流祖   浅山一傳斎三五郎重晨 
二世   小島仁左衛門尉光友
三世   仲村九兵衛尉光利 
四世   中井茂右衛門尉重頼 
五世   小野里新兵衛尉勝之 
六世   中田七左衛門尉政経
七世   浅山一傳重行
八世   森戸三太夫朝恒
九世   森戸三休偶太
十世   森戸一傳金春 
十一世  森戸三太夫春邑 
十二世  森戸帰春金綱 
十三世  森戸三太夫金鏗 
十四世  森戸三太夫金制
十五世  梅田七郎治忠寄 
十六世  梅田右平治忠謙 
十七世  小林藤十郎 
十八世  石川左内
十九世  遠山龍三郎 
二十世  石川喜六
二十一世 山崎房吉
二十二世 武石兼相 
二十三世 松本貢 
二十四世 松本保男 
二十五世 木村賢

所蔵資料
同流伝書多数
浅山一傳流伝授形筆録 武石師範発行 写本

小倉藩伝二天流剣法

             

                 秋満紫光師範   
              二剣法 天地構

史上最も有名な兵法家宮本武蔵を流祖にする剣術流儀である。
熊本に伝わった二天一流よりも古い形式を留めているらしく
新免無二の當理流や鉄人流に近い形名称を残す。
形は独特な袋竹刀と籠手を使用する。
小倉藩校にて稽古され福岡県行橋市出身の秋満紫光師範に伝わる。

形名称

一剣法(一刀形)

思無邪
合晴眼
本身
逆身
八空

二剣法(二刀形)

當合切    (中段)
天地構    (上段)
巻乱     (下段)
陰縛殺    (左脇)
陽縛殺    (右脇)
表裏併せて二十本


 上村師範筆 二天流剣法伝書の額
   (高無宝良師範 所蔵)

秋満紫光師範(明治32.8.27(1899)-平成8.4.25(1996))
福岡県行橋市出身
大正二年に十五歳で両親を亡くし七人の家族を養いながら
苦労して16歳から元小倉藩剣術指南役の上村貫次郎師範(当時72歳)に学んだ
上京後は名人と名高い荒木楽山師範に本心一刀流、荒木流居合を学び相伝
戦前は新宿馬場下の穴八幡宮境内で剣技を指導。
子息の秋満義孝先生(ジャズピアノ界のレジェンド)も終戦まで学ぶ。
昭和37年頃より親戚の海老一染之介、染太郎兄弟の引き合わせで
五代目柳家小さん師匠の道場で指導に当たる。
そのころ女優の岩田レナ(路加奈子)女史にも指導する。
書道と剣道を極めた。著書「道に生る」

   

     秋満紫光先生の作品


調査にあたり秋満義孝先生父娘に取材させて戴きました。 
   秋満義孝先生



   
    秋満師範は当時95歳 師範の写真は「極意相伝」誌上より引用
           打太刀は「五代目柳家小さん」事「小林盛夫」師範

 
  二天流剣法の独特な袋竹刀(上段 革製、下段 帆布製)と籠手   

二天流剣法系図(「小倉藩文武学制沿革誌」より引用)
流祖  新免武蔵守玄信
二世  青木常次左衛門家義
三世  吉岡右近将監賢秀
四世  松井佐渡守義正
五世  松井伊織義國
六世  竹村岩次郎斐章
七世  上村貫次郎(小倉藩剣術指南役 京都郡仲津村にて道場経営)
八世  秋満紫光(別号 義為)書家
     
    

系図は資料を基に掲載したものです。

秋満師範以降は伝書をもって相伝する形式を踏んでおらず正式に系図に含められるか目下不明の為記載を省略する。

歴代継承者の御子孫に心当たりのお方は勝武館までお知らせくださいませ。

私どもでは流儀の調査を継続して行っております。

所蔵資料 
本心一刀流流祖 荒木楽山直筆絵伝書 昭和二年に写本
小倉藩 青木戸太夫の二天流伝書(島津兼治先生旧蔵)
秋満紫光著「道に生る」
小倉城展示資料目録
関係書籍多数


 

 
    

  

 

海軍軍刀術(高山流白兵抜刀術)

Japanese Naval Sword Technique Takayama Ryu

戦時中に帝国海軍将官待遇軍属で剣道十段の高山政吉師範
により考案され海軍部内で実施されていた軍刀術(白兵抜刀術)である

     創始者 高山政吉師範 

(写真は日本刀試し斬りの真髄―居合剣道試し斬り入門 (1980年) 中村 泰三郎著 より引用)

      

               

                     

           昭和17年「新武道」より

奇跡的なご縁 念ずれば通ず

勝武館に於いて多年流儀の実伝がないものと思い古資料を収集し復元に努めてまいりましたがやはり復元では細部が不明瞭であり完全ではないと悩んでいた折も折。
当館門下生である大河原女史のご主人の親戚に二代目小山勇先生の高弟である久保浩師範がおられることが判明しました。また実伝を習得されている石田博信師範も紹介され実伝を習う機会に恵まれました。
連絡をすると高山流の研究を非常に喜んで戴きました。
昭和46年当時、高山政吉先生は小山師範宅に剣道家への刀法指導の為一週間ほど逗留。
その際に高山師範に講義を受けた方が小山先生と門下であった久保先生、石田先生です。
久保師範、石田師範からはその時戴いた資料全てを寄贈戴き
令和2年11月19日に石田師範より詳細に実伝技法を伝授され、流儀の後世への伝承を委嘱されました。

この度、御寄贈戴いた高山先生からの史料の数々

詳細は後日追加予定です。

縦斬、斜斬、拂斬、刺突の四刀法を主軸に作られており
すべてその組み合わせであり習得は容易である。
極端に大きく振り冠り、大きく斬り下すのが特徴であり
確実な抜刀、確実な斬撃を得るために全身運動で行う
大技が多く技巧的な技が少ないのが特徴である。
その点では中華民国時代の軍用大刀術(香港 形意拳 廖諾恒老師談)
と似ている側面もある。

停止間、尋問、宣撫、調査中に敵が危害を加えんとした場合
敵に蹴りなどの当身業を放ってから斬撃する業
茂みに潜む敵兵を探索して斬撃する業
匍匐前進して敵陣に接近しおもむろに斬撃する業
突撃時、多敵を相手とした乱戦の業をも含む。

簡単ではあるが趣のある軍刀操法である。その名称などには
公儀御様御用 山田浅右衛門家の試し切り秘伝書
の影響もかなり受けている。

海軍軍刀術は短期訓練により基本の操法を学び即戦場に於ける実用に
供されるものであり長年かけて学ぶ古式の武術とは目的自体が異なる。
また部隊、教官の裁量によって指導内容を変更していた為、
技の名称に差異が見られる

現在勝武館所蔵 軍刀術関連資料は以下の通り

1 近代戦用 白兵抜刀術            昭和13年2月 高山政吉
2 武道改革所見                昭和15年    高山政吉
3 海軍武道教範(軍刀術之部)         昭和17
4 実戦と武術の改革              昭和17年2月 高山政吉
5 海軍軍刀術(仮称)   佐世保第一海兵団  昭和17年6月
6 抜刀術参考書      横須賀潜水艦基地隊 昭和17年10月
7 高山流白兵抜刀術抜萃  不明

8 海軍軍刀術(抜萃)   舞鶴海軍工廠    昭和18年9月 千原義夫
9 軍刀術         呉団体育科     昭和20年1月
10竹槍ニ就テ       舞鶴海兵団     昭和20年4月
11軍刀術指導参考     横砲校体育部    昭和20年5月

12 仰ふく陸海空自衛隊参考剣道として検討    
  (奥付 高山流日本武道体系 刀法剣道の部)  昭和45年7月 高山政吉
13 
学校剣道に直結する 全日本男子女子学生刀法居合    昭和45年7月 高山政吉
14 武道学研究 第3巻 第1号 日本武道学会    昭和45年11月
15 拱辰館本部、舞鶴支部 会則         昭和46年
16 古刀形銘鑑                 高山師範旧蔵

↑ 資料が膨大なため現在工事中です。まだまだあります。

1高山流白兵抜刀術抜萃より引用

上巻 歩行業
正一刀 後開袈裟 右諸手拂斬 諸手左刺突 片手拂返 
後拂袈裟捲 四方乱斬 退リ襷捲 返留

中巻 潜行業
前地際 右下斬分 左右突分 後拂袈裟留 前抜打返 
三方連捲 四方袈裟 退リ突捲 前拂留

下巻 突撃業追掛片手袈裟 立合諸手袈裟 斬込応袈裟 飛込斬捲 追詰乱斬
突捲四方片手突 斬捲四方片手袈裟 追捲諸手袈裟 襷留

2海軍武道教範(軍刀術之部)より引用 

歩行業
歩行技は歩行中突発する兇変に際し行ふ使術にして
前敵真向斬、後敵右袈裟斬、右敵拂斬、左敵諸手刺突等とす


停止業

停止業は停止中突発する兇変に際し行ふ使術にして
前敵片手刺突、後敵拂斬、右敵左袈裟斬、左敵斬上等とす


潜行業

潜行業は接敵行動中突発する兇変に際し行ふ使術にして
前敵抜打刺突、後敵拂袈裟斬、右伏敵袈裟斬、左敵刺突等とす

突撃業
突撃業は白兵突入に於ける使術にして
刺突進、拂斬進、諸手真向斬進、諸手袈裟斬進等とす

 

3軍刀術指導参考 横須賀砲術学校より引用


軍刀術の目的 軍刀術修練の心得 軍刀術指導の心得 基本の構


軍刀取扱 手入法


運体法
 
 捻轉
  体捻轉


 圓轉
  縦斬圓轉 斜斬圓轉 横斬圓轉 刺突圓轉


 施術
  縦斬 斜斬 横斬 刺突
  
運刀法  
 縦振廻 斜振廻 横振廻 突廻

刀法原形
 
縦斬 斜斬 横斬 刺突

素斬技


 素斬返
  
縦素斬返 斜素斬返 横素斬返 素突返


 素斬攻
  縦素斬攻 斜素斬攻 横素斬攻 素突攻


軍刀基本操法

歩行業
 前敵縦斬 後敵斜斬 右敵横拂 左敵刺突 四方斬


潜行業
 前敵縦斬 後敵斜斬 右敵横拂 左敵刺突 四方斬


突撃業
 前敵片手突捲 前敵片手拂捲 縦四方斬捲 斜四方斬捲 総捲


匍匐業
 飛込縦斬 高這斜斬 立上り横拂 膝着刺突 寝転左右斬


注意点としては資料によっては目録の内容
左袈裟、右袈裟の方向などに相違が見られる。

資料1 「高山流白兵抜刀術抜萃」 昭和13以降
上巻 歩行業 9本
中巻 潜行業 9本
下巻 突撃業 9本 

  

資料2 「海軍武道教範(軍刀術之部)」 昭和17
歩行業  停止業  潜行業  突撃業  各4本

     

資料3 「海軍軍刀術」 昭和18 舞鶴海軍工廠発行

歩行業  
停止業  潜行業  突撃業  各4本

          

資料4 「軍刀術指導参考」 昭和20 横須賀砲術学校体育部発行

歩行業  潜行業  突撃業  匍匐業  各5本

※本文は上記資料より引用しています。

 

岐阜県教育委員会登録 勝武館所蔵
謹作高山刀 刀匠 石原正直 研師 福田耕平
長さ 64.5cm 反り 1.6cm

※高山刀は高山政吉師範考案の軍刀
ナカゴ尻が猿手穴にかかるほど長寸のナカゴです。

   現在までの伝系図

    流祖 高山政吉
        |
       小山勇(舞鶴拱辰館師範)
        |
    石田博信 久保浩(舞鶴拱辰館)
        |
       木村賢

平成3年「秘伝古流武術」誌上に於いて高山流白兵抜刀術の存在を知り幾星霜
苦心惨憺の末、詳細な資料の調査と研究してきましたがこの度長年学んだ伝承者に出会い流儀の全貌が明らかになりました。

※以上流儀の現状判明している事実に基づいて記載しております。
今後の新資料発見如何に依り内容修正する場合があります。

勝武舘 館長 木村賢

館長平成9年より海上自衛官として勤務。
退官時3等海曹

平成24年相州松武館館長松本武久師範より皆伝を受け
神奈川県平塚市に無比流 兼相流 勝武館を開設。

事業を営む傍ら古流武術の保存、振興に励む。

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